※ この記事はテレビアニメ版『TARI TARI』全13話のネタバレを含みます。閲覧にはご注意下さい。 秋アニメが開始する10月になりました。
9月まで放送していた夏アニメの話題を出すのはちょっと心苦しいところもあるんですが……
『TARI TARI』については語っておかないとならない気がするので、語っておきます!この作品の面白さを一人でも多くの人に分かってもらいたいのです。
なので、今日の記事は「このアニメを観たことがない人に向けた評論」ではなく、「このアニメを観ていた人に向けた解説」のつもりで書きます。
もちろん観たことがない人は読むな、という気はありませんし、興味を持ってもらえたなら是非DVDレンタルでも
ネットの有料配信ででも観てもらいたいのですけど。今日の記事はネタバレ全開で行きますんで、その辺は踏まえて読んでください。
『TARI TARI』というアニメを一言で説明するなら――――
「高校3年生を描いたアニメ」だったと思うのです。
寄せ集めの合唱部とか、普通科と音楽科のある高校とか、妊婦先生とか、高校が廃校になってしまうとことか、「歌」が持つ意味とかも全部、
「高校3年生」を描くための装置だったと思うのです。
もちろん卵が先か鶏が先かと言う話で、「高校3年生を描くから合唱部にした」のか「合唱部の話だから高校3年生にした」のかは分かりませんけどね。
自分が第1話を観た時、まず
「高校3年生から始まるんだ?」と思ったんです。
部活モノのアニメ、高校生モノのアニメは、「高校1年生から始まる」のがセオリーだと思うのですが(キャラクター同士の人間関係が出来上がっていないので視聴者が感情移入しやすくなる)―――このアニメは「高校3年生から始まる」だけじゃなくて、「高校3年生の春に新しい部活を作る」というムチャなところからスタートするという。
しかも、この新しい合唱部のメンツが――――
「元声楽部の来夏」と「元音楽科の和奏」はイイとしても、「弓道部の紗羽」「バドミントン部の大智」「帰国子女で暇そうなウィーン」という
どうしようもない寄せ集め集団(笑)。紗羽を誘ったのは「声が大きいし!」だし、大智を誘ったのは「送別会で校歌を歌っていたから」というよく分からない理由。
高校1年生の新しい部活ならば、こういうところから始まるのは分かります。
『けいおん!』だって、文芸部に行こうとした澪、合唱部に行こうとしたムギ、素人の唯、という寄せ集め集団で始まった青春物語でしたからね。そこからみんなが「バンドって楽しいね!」と言えるようになる物語でした。
でも、高校3年生の大事な時期に、こうやって「音楽に興味のない人」をムリヤリ巻き込んでいく来夏に対して、イイ感情を抱かなかった人もいるんじゃないかと思います。自分も
来夏は可愛いから許されてるよな、と思ったことが何度もあります。
でも、「高校」ってそういう場所ですよね。 大人になると分かるけど、「学校」って「ただ年齢が同じ」というだけで色んな人を一つの空間に押し込めてしまう特殊な場所ですよね。頭のイイ人も、頭の悪い人も、スポーツが得意な人も、音楽が好きな人も、やかましい人も、あまり人と関わりたくない人も、文句ばっかり言ってくる人も、同じ空間で時間を共にするという。
「普通科」と「音楽科」のある高校というのも象徴的で。
音楽に対する考え方も、来夏と広畑さんでは全然違ったりする。
将来の夢も、学校に来ている目的も、みんなバラバラなんです。
合唱部5人の「寄せ集め感」は、言ってしまえば「高校3年生」を象徴していると思うんです。 みんな“一番大切なもの”は違う。
将来の夢もみんなバラバラだから、高校を卒業すればそれぞれが違う道を進むことはみんな分かってる。どんなに仲良しであっても「みんなで一緒の大学に行こう!」みたいな話にはなりません。
この関係は卒業までの1年間限定だと受け入れているんです。 自分がこのアニメが好きだったのは、このアニメは「残り少ない青春の時間」を描いていたからなんです。来夏がどんなバカなことをしても、和奏がどんなにウジウジしていても、大智がどんなに空回っていても、それが分かっていると一つ一つのシーンがキラキラして見えたし。
「これが青春のラストチャンス」だから、必死に生きている彼女らに胸が熱くなるんです。
11話の終盤、廃校が決まって、目標を失ったみんながそれぞれのことをしているシーン。
やっていることは「合唱部が出来る前の日常」だし「これからも続くであろう日常」なのだけど、何てつまんなさそうに描かれていることか!強制的に文化祭を中止にされて、出来ることがなくなった彼女らのあの時の心情はまさに「青春の終わり」なのだろうと。
だからこそ、和奏の作った曲で「最後にもう一度!」とみんなで前を向くシーンが熱いのです。
「みんなで一緒に歌ったら、多分…卒業してバラバラになっても、この歌を聴くたびに、みんなのことを思い出すよね」
「もしこの歌をたくさんの人が聴きに来てくれて、楽しい想いを共有できたら、いつかまた苦しいことに出会った時、たくさんの人に応援してもらったことを思い出して、諦めずに頑張れる気がする」 高校3年生。
みんな卒業したらバラバラの道に進む。
でも、「歌」は残る。
―――みんなの心の中に「歌」が残れば、バラバラの道に進んでも、独りじゃないんだ。
このアニメは「高校3年生」でなければ描けない物語だったのです。
○ 何故、教頭は最後に合唱部を受け入れたのか? Twitterを見ていると、「教頭はまひると百合ってたので、まひるの娘の和奏に甘くて最後に合唱部を認めてしまった」と言っている人がいたんですけど。
違いますよ! いや、別に百合は百合でイイんですけど!教頭は和奏にも厳しいこと言ってたし、和奏が入った後も合唱部を認めなかったじゃないですか。「和奏たんハァハァ」という理由で合唱部を認めたワケじゃないんですよ!
最後まで観た後に、もう1回1話を観返すと分かりやすいんですけど……
第1話で来夏が声楽部を辞めるハメになったシーン、あそこで教頭が来夏に言っているセリフは
かつての教頭自身に向けたセリフなんですよ。
「音楽を愛することは誰にでも出来る。しかし、音楽から愛されることは……
人の心を動かすには特別な何かが必要なのです。アナタにはそれがない。」 音楽に愛されまくっていたまひるに対する劣等感で、教頭は自分が音楽に愛されていないと思っていた。その劣等感に勝つために、高校卒業後バラバラの道に進んだ彼女は、まひるが黄金時代を築いた合唱部ではなく、自分なりの声楽部を作って対抗しようとしていたんです。
教頭は来夏に「かつての自分」を投影していたんです。 音楽に愛されてもいないのに、音楽から離れられない来夏に、自分の劣等感を重ねていたんです。
しかし、終盤の墓参りのシーン。
声楽部どころか学校を失ったことで「まひるのようにはなれなかった」と思っている教頭に、和奏が自分の作った曲を聴かせます。そして、和奏の言葉にハッとするのです。
「けど、私には楽しむことと同じくらい、友人の力が必要でした……
苦しい時に声をかけてくれて、みんな自分とは全然違うんだけど、一生懸命で、率直で。
ケンカしたり、力を合わせたり。
……母にも、そういう友人がいたんじゃないでしょうか。
一緒に楽しんで、悩んでくれた人が」 来夏や紗羽や大智やウィーンがいなければ、和奏は音楽には戻って来れなかった。
同じように、自分がいなければ、まひるも「心の旋律」を作れなかったのかも知れない。
教頭は自分の劣等感を克服して「自分も音楽を好きで良いんだ」と思えるようになったから、来夏のことも認められるようになり、合唱部のことも認められるようになったのです。 そして、この話は「和奏の作った曲」にも通じる話です。
まひると教頭が何十年前に作った「心の旋律」を来夏が発掘して、来夏はそこから「音楽を楽しむ」というまひるの気持ちを感じました。
「でも、好きなんです。
聴いたことない曲だったけど、作った人の音楽を楽しむ気持ちが私には伝わってきて。
すごくまっすぐで、真剣に歌が大好きで。でもやっぱり楽しくて。今の私の気持ちがすっぽり収まるカンジで……だから、その歌が歌いたいんです」 その想いは来夏を通して色んな人に届き、和奏のことも、教頭のことも救います。
「歌」にはそれだけの力があるんです。 「一緒に歌を作るとね、自分を相手の心の中に残せる気がするの。
だから、悲しみじゃなくて、母親として、優しさとか強さとか。
もし私がいなくなっても、その歌が私の代わりにずっとあの子と一緒にいてくれる。その歌を聴いて、あの子が私を思い出すの……」
「私、絶対にあの子を独りにしない……!」 まひるの言ったこの言葉は単なる言葉ではなく、実際に作中で「心の旋律」は来夏達にまひるの言葉を届けました(当然、来夏はまひるのことなんて知らないのに!)。
同じように、和奏の作った曲も、何年後か何十年後かに、その想いと言葉を届け、誰かを救うかも知れない。
「みんなで一緒に歌ったら、多分…卒業してバラバラになっても、この歌を聴くたびに、みんなのことを思い出すよね」
「もしこの歌をたくさんの人が聴きに来てくれて、楽しい想いを共有できたら、いつかまた苦しいことに出会った時、たくさんの人に応援してもらったことを思い出して、諦めずに頑張れる気がする」 高校3年生。
みんな卒業したらバラバラの道に進む。
でも、「歌」は残る。
―――みんなの心の中に「歌」が残れば、バラバラの道に進んでも、独りじゃないんだ。
これは和奏や来夏達、現在の合唱部の面々の“未来の話”だけじゃなくて。
まひるや教頭達の頃の合唱部の人達で、“実際に描かれた話”なんです。
自分がこのアニメを「10年後まで語り継ぎたいアニメ」と言ったのは、アニメ自体がとても素晴らしかっただけではなく、このアニメが
「何年経っても繋がる想い」を描いていたからです。
深夜アニメは3ヶ月ごとに何十本というペースで新しい作品が生まれています。
今現在アニメを観ている人も、何年か経ったら全くアニメを観ない日々が来るのかも知れません。
今このブログを読んでいる人も、その内に「やまなしなひびなんてダッセーよな!帰ってプレステやろうぜ!」と見向きもしてくれなくなる日が来るでしょうし。そもそも「ブログ」自体が何年持つんだって話です。
でも、このアニメを観たことは心の中に残るんです。 作った人の想いも、一緒に観た同時代のみんなの想いも、ずっと心の中に残るのだとしたら私達は独りじゃないし。ずっとずっと忘れられない、大切な想いとして語り継ぎたいと思ったのです。
本当に大好きなアニメでした。
この作品に出会えて本当に良かったです。
○ 余談 『TARI TARI』だけで1ヶ月くらいブログの話題は持ちそうですが、「初心者のみんなも一緒に秋アニメ観ようぜ!」と焚きつけた責任もありますんで、いつまでも夏アニメの話題を持ち越さないためにも「TARI TARIについて語りたいこと」をこの記事の間に書き残して、この記事を終わらせたいと思います。
○ 最終話の「紗羽の返事」は? 大智ーーーーーー!!
最終話、海外に留学してしまう紗羽に大智が告白するシーン。
告白から、紗羽の返事、飛行機を見送るシーンまで全部セリフが聴こえません。
自分は観ながら「当然、紗羽の返事はこっちだったろう」と思いながら観ていたんですが。
あそこでわざわざセリフが聴こえないようにしているということは、明確な答えがあるワケではなく「みなさんが思った方が正解です」ってことだったのかなーと思いました。
その後の卒業式のシーンを見ても、「どっちであっても矛盾はしていない」と思いますし。
なので、自分がどっちだと思いながら観ていたかも書かないでおきます。まぁこの記事を読めばどっちだと思っているかも分かってしまいそうですが(笑)。
○ 「ウィーン」の名付け親は紗羽だった 私だけじゃないと思いたい!
「ウィーン」の本名を「ウィーン」だと思っていた人は!
最終話でヤンに「あつひろ!」と言われて、「………誰のこと?」と思った人は!
1話には、転校生の自己紹介のシーンで黒板に「前田淳博」と書かれていたんですね。
言われてみると、先生は名前を呼んでいないし、1話の大智は「オマエ」としか呼んでいないんですよね。
んで、2話冒頭で前田淳博くんが「みんなのことを名前で呼ぼうと思う」と話しているシーンで、(路上で歌っていたことを誤魔化したい)来夏と前田淳博くんが「(出身地は)ウィンだっけ?」「ウィーン」「ウィーン」と言っていたので、紗羽が「うるさい!」と一喝、その場で前田淳博くんのことを「ウィーン」と呼ぶようになったという。
別に何の不思議もないシーンなのに、どうして自分が前田淳博くんの本名を「ウィーン」だと思っていたかというと―――紗羽が2話で名づける前に、1話のEDクレジットで「ウィーン」と表記されていたからです。あ、アイツはウィーンって名前なんだ、と勘違いしてしまったのです!ぼ、ぼくわるくないよね!!
○ 美術部の水野さん 11話で大智が背景を頼みに行った美術部の部長。
Wikipediaに依ると、名前は水野葉子さんでCV.は寿美菜子さん。
同じP.A.WORKS&ポニーキャニオン作品の『花咲くいろは』に登場した美術部員(で菜子のクラスメイト)は、
Wikipediaに依ると、名前は水野枝莉さんでCV.はこちらも寿美菜子さん。
しかも、両方とも黒髪ボブくらいでメガネキャラ。
前髪の処理とかメガネの色は違うんだけど……これは一体!?
自分は『花咲くいろは』よりも前のP.A.作品はほとんど観たことないんで知りませんでしたが、P.A.作品の定番だったりするんでしょうか。
そう言えば、ウィーンが大智のお姉さんの下着姿を見てしまって「屈伸屈伸→ウサギ跳び」をするシーンも、『花咲くいろは』でメールの返信を悩んでいる緒花が見つかった時に「屈伸屈伸→ウサギ跳び」をしていたような。これもP.A.作品の定番だったのか??
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