昨年11月に友達が『ドラクエ9』を貸してくれまして、当時の自分はものすごく忙しくて遊ぶ時間もなく、母に渡したら初RPGにも関わらず寝る間も惜しんで遊ぶようになった―――という話は以前にも書きましたが、そんな母の『ドラクエ9』も先月の半ばくらいに無事にクリアをされまして、現在は宝の地図とクエスト解決にせっせと励んでいるそうです。
そのこと自体は、特筆すべきこともないんですけど……
エンディングを迎えた母がボソッと言った一言が印象に残ったのです。
「私、初めてゲームをクリアしたわ」 言われてみれば……母がこれまでプレイしてきたゲームというのは『テトリス』のようなパズルゲーム、『脳トレ』『Wii Fit』のような“Touch!Generations”のソフト、そして『どうぶつの森』―――終わりのないゲームばかりだったんです。
DSの『Newスーパーマリオ』とWiiの『スーパーマリオギャラクシー』をプレイしたこともあったんですが、『New』は2-1で挫折、『ギャラクシー』はベッドルームに辿り着いたところで挫折。どちらもクリアどころかゴールが見えずというところで進めなくなってしまったんですね。
『ドラクエ9』にとって「クリア」は通過点でしかないのは分かっています。
でも、
それでも「クリアをした」という事実は母にとって大きな自信になったっぽいんですよ。初めて成し遂げたことですから。
年末に『NewマリオWii』のTVCMが流れている頃、以前にDS版をやらせたことがあるので興味があるかと母に尋ねてみたのですが……一度挫折をしたということで「自分にはムリなゲーム」という認識になってしまったようなんです。興味がソコで閉じてしまっている。
以前にスーファミ版『星のカービィ スーパーDX』に興味があるかと映像を見せた時も、「マリオと似たようなゲームじゃん」と一蹴されました。
母にとって、もうアクションゲームは「自分には関係のないゲーム」になってしまったんですよ。 対照的に、『ドラクエ9』にハマっていることを兄貴夫婦に話したところ、兄がDS版『ドラクエ5』を持っているという話を聞いて。『9』に飽きたら貸してもらおうかな、なんて言っていて。
『ドラクエ』シリーズは「母に関係のあるゲーム」になったんです。 『街へいこうよ どうぶつの森』を買ったのも、『Wii Fit Plus』を買ったのも、
前作で母にとって「関係のあるゲーム」になったからなんでしょう。
僕自身は、「ゲームはクリアしなくても構わない」と思っているんです。 ゲームの感想を「○○で挫折しました」と書くと、「最後までクリアしてから感想書けよ!」とか「隠し要素まで全部やってから感想書けよ!」と言われることがあります。
でも僕は「最後まで遊べなかった」「最後まで遊ぶ気にならなかった」というのも立派な感想だと思っているんですよ。 ゲームに限らずね。
「この映画、開始10分で寝ちゃったよ」とか。
「この漫画、10巻までは読んでたんだけどね」とか。
「このアニメ、5話のラストに唐突にダイジェスト映像が流れて観るのやめたよ」とか。
それは立派な感想だと思うんですよ。
「『かなめも』、10話から面白くなるのに~」と言っても、そこまで我慢出来なかった人がいたという事実も重要だと思うんですよ。攻略本や攻略サイトで必死に情報入れて何とかクリアしたって人もいるでしょうが、そういうものに頼らず自力で挫折するという人もいてイイと思うんです。
だから僕は、「ゲームはクリアしなくてはならない!」と言ってくる人達に対して「あー!これだから自称“ゲーマー”は!」と腹を立てていたのです。アンタ達の「ゲームは○○じゃなければならない!」がゲームの地位を貶めているんだよこんにゃろう!と。
でも、ウチの母ですらそうだったという。(『脳トレ』以前は)ゲームとは無縁なところで生きていた母ですらそうだったという。
ゲームをしない人ですら、「ゲームはクリアしなければならないもの」と認識していたという。
いや、逆か。
だ か ら こ そ ゲームをしなかったのか。
○ 「クリアできない」=「損」? 別にこれって最近の風潮じゃないんですよね。もちろん「ネットのせい」でもありません。
以前にRPGのレベルアップ制度の話をブログに書いた時にも、
「アクションゲームが苦手でマリオすらクリア出来なかった自分がドラクエならクリア出来て感動したんです」というコメントを頂戴しました。DSの話ではなくファミコンの頃の話。時代は繰り返す。
自分は上に書いたような考え方の人間ですから「別にクリア出来なくたっていいじゃん…」と思ってしまったんですが。
それは多分、「クリア出来る人」の論理だったんだと反省しました。
「ごめんね、気付いてあげられなくて……頑張りたかったんだよね……」 ちょっと暴論になるかも。
ゲームを「素晴らしい/素晴らしくない」とか「優れている/劣っている」とか「評価が高い/評価が低い」とか、そういうものだけで考えていくと見過ごしちゃうと思うんです。
「自分がクリア出来た/挫折した」かって、作り手が思っている以上に買い手は大事にするのかも知れませんよ。うんまぁ、それも含めて「素晴らしい」「優れている」「評価が高い」という言葉を使っているなら構いませんけど。
よく言われることですけど、「『FF8』の売上げが高かったのは『FF7』の評判が良かったから。『FF9』の売上げが下がったのは『FF8』の評判が悪かったから」という論理。「評判って何よ?」って話であって、自分は単純に
『FF8』は『FF7』ほどクリアできた人の割合が高くなかったからなんじゃないかと思ったのです。
自分も『FF8』は自力でプレイしてディスク3枚目の終盤で詰みかけて、友達に攻略本を借りて「え?こういうシステムのゲームだったの?」と驚いて、そこからはジャンクションシステムの面白さに気付いてクリア出来たくらいで。クリアした『FF』シリーズ(4~10)の中で唯一攻略本に頼ったのが『8』でしたから。
そんな風に自力でクリア出来なかった人も多かったんじゃないかと思うのです。
無闇にレベル上げるとしっぺ返しくらいますし……それも含めて「素晴らしくない」ということならば構わないんですけど、そう考えていくと「素晴らしいゲーム」=「誰でもクリア出来るゲーム」という定義になっちゃうような気もしますけど。あれ?頭がこんがらがってきた……
んでんで。
現行機世代の売上げ上位ソフトって、「クリアのないゲーム」「クリアが目標ではないゲーム」が多くなっているんですよね。これはひょっとしたら、「クリア出来なければ損だ」という風潮へのカウンターなのかなぁと思ったのです(中古対策の理由も大きいでしょうけど)。
DSの500万本カルテットの内、2本は「クリアのないゲーム」です(『おい森』と『もっと脳』)。
Wiiの300万本トリオの内、2本は「クリアのないゲーム」です(『Sports』と『Fit』)。
もっと言えば、『ポケモン』だって『モンハン』だって『ドラクエ9』だって「クリア=ゴール」というゲームではないですよね。無尽蔵なまでのやり込み要素が待っているという。
『FF13』みたいなゲームはむしろ例外な方で。
でも、ネット上で言われる「ゲームらしいゲーム」って『FF13』のようなクリアが目標なゲームのことを指すことが多くないですか?
しかし、よくよく考えて見ると『マリオカート』や『ストII』だって「クリア=ゴール」ではなかったですし。「クリア=ゴール」のゲームが絶対的な支配力を持っていた時代なんてほとんどなかったとも思うのです。
強いて言うならPS時代がそれに当てはまるのかも知れませんが、PSでRPGが大ヒットしている裏で、任天堂機で『ポケモン』やら『スマブラ』やらがヒットしていたのだから・・・…
「ゲームはクリアしなければならない」なんて風潮は一体どこから生まれたのやら。 いや、さっきの話を考えると『スーパーマリオ』の時点で既にあったワケですからね。
ゲームの巧拙が重要だった時代。『スーパーマリオ』というよりかは、それ以前のシューティングブームに要因があるのか。
みんながこぞって高橋名人に憧れていた時代に、その上手くなっていく過程についていけずに「あんな風にはなれないよね」という劣等感が生まれ、そうした人達が『ドラクエ』以後のRPGブームを支え、その「誰でもクリア出来る」と思われたRPGがメインストリームになったからこそ「ゲームはクリアしなければならない」という風潮が生まれた……?
あれ?なんか順序が違うような……
ただやっぱり、シューティングゲームにしても格闘ゲームにしても(ひょっとしたら今のFPSとかも)「
プレイヤーが上手くなる」「競い合う」ことにイミのあるゲームが流行るのとともに、それと同時かちょい後にカウンターとして「誰でも楽しめる」ジャンルが流行るという傾向がある気がしますね。 ・シューティング&2Dアクション→アドベンチャー&RPG
・格闘ゲーム→『ポケモン』やら『たまごっち』やら
・(米英の場合、FPS→『Wii Sports』『Wii Fit』など)
うむ。話がどんどんズレているという自覚はあります。
ただ、ここの部分に核心があるとも思うのです。
○ 繰り返す「ライト/コア」の歴史と、二分化をぶち壊すキラーソフト【ここまでの3行まとめ】・人は「挫折したゲーム」より「クリアしたゲーム」に愛着を持つ
・だから、「挫折のないゲーム」が売上げ上位を締めるようになった
・犯人探しにはあまりイミがない
ふむ。身も蓋もない3行目になってしまった。
「挫折のないゲーム」と言っても、これは各ソフト様々な方法を取っていると思います。
○ 「クリアだけなら多くの人が出来て、大量のやりこみ要素が待っている」ゲーム
DS版『Newマリオ』、『ドラクエ9』などなど…
○ 「クリアの概念がない」ゲーム
『どうぶつの森』、『脳トレ』、『Wii Fit』、『トモコレ』などなど…
○ 「クリア以外のやりこみ要素がメイン」のゲーム
『ポケモン』、『モンハン』などなど…
○ 「対戦しようぜ――っ!」ゲーム
『ストII』、『マリオカート』、『スマブラ』、『ウイイレ』、『Wii Spors』などなど…
「クリア=ゴール」ではないコレらのゲームって、1本買うと長く楽しめますよね。
逆に言うと、そのソフトが面白いと他のソフトが買われなくなってしまう。 今の日本のゲーム業界が「売れるゲームとそうでないゲームがハッキリ分かれてしまっている」と言われるのはココに原因があるんじゃないかと思います。“原因”というと響きが悪いか。消費者からすると「少ないお金で長く楽しめてありがたい♪」ワケですしね。
「ゲームはクリアしなくてはならない」という風潮
→ カウンターとして「クリアが目的ではないゲームが」流行る
→ そうしたゲームは長く楽しめるので、「次の1本」が売れない
(関連記事:
『Wii Fit』は飽きられなかった時こそ怖い)
こういうことをブログに書くと嫌われるんだろうなーとは思いますが。
「オレ達コアゲーマー!」を自称している人達って、次から次へとゲームを買うじゃないですか。今週はアレ、来週はアレ、てなカンジで。別にソレが悪いわけじゃないです(ゲーム業界に沢山お金を落とすのだから貢献しているし声が大きくなるのも当然だと思います)が、みんながみんなソレを望んでいるワケじゃないことは忘れちゃいかんと思うのです。
音響マニアに「そんなスピーカーで音楽聴いているなんて損しているね」とか言われると、
別にオレ、そこの優先順位高くないし……としか思わないじゃないですか。
自称“コアゲーマー”の人達が一つ一つのゲームを「スタート→ゴール」と次々と消化して新しいソフトにどんどん手を出している一方で、
一本のゲームを長く楽しみたい人も当然いて。そういう人達を“ライトユーザー”という言葉に当てはめちゃうことに自分は違和感があるのです。 『ドラクエ9』や『モンハン』を何千時間とプレイしている人は“ライトユーザー”?
『脳トレ』や『トモコレ』を口コミで「これ面白いよー」と布教させていった人達は“ライトユーザー”?
「ゲームらしいゲーム」を遊ばないと“ライトユーザー”?
なんかコレ、
「最近の若者は」とか
「若者の○○離れ」みたいな論調に似ていると思うんですよ。
よく分からない“若者”とか“ライトユーザー”という言葉を隠れ蓑にして、そこに責任を押し付けて何も考えていないという。
(関連記事:
「コアゲーマー」の定義は発言者の立場によって異なるんじゃないか)
いや、うん。言葉の定義は別にイイや。
ユーザー層が二分化しているのは確かだと思いますし。 しかし、この「自称“コアゲーマー”がライトユーザーを蔑む」現象とか、「ライトユーザーが自称“コアゲーマー”を怖がっている」現象とか。外枠の言葉を変えれば昔からあった気もしますね。それこそ「シューティングゲームが好きな人」と「アドベンチャーゲームが好きな人」とか、「マリオが好きな人」と「ドラクエが好きな人」みたいな区分で。
人間が差別と区別が大好きだって話は、まぁさておき。
そう考えると、任天堂の「ライトユーザーも働きかけ続ければコアゲーマーになる」論理はちょっと無茶な気がしますね。あの当時『ポートピア』や『ドラクエ』が好きだった人が、その後シューティングゲームにハマったかという話ですし。『ポケモン』や『たまごっち』が好きだった人が、その後に格闘ゲームにハマったかという話ですし。
「好きなゲームのジャンルは何か」とか「コアかライトか」という区分が出来てしまうのはどうしようもなくて、
それらを全部超越して誰もがそのゲームに夢中になれるような社会現象ソフト(マリオとかドラクエとかストIIとかポケモンとかFF7とかモンハンとか、他にもたくさん)が生まれ、そこからまた「挫折した人」が生まれるのだけど―――
そうした人をフォローするべく、また「挫折する人を生まないゲーム」が出てきて社会現象ソフトになるということなのかもと思いました。
自分がモロに世代だから例に出しますけど……
『ストII』って「誰でも楽しめる!」という入り口だったんですよ、最初は。それ以前のアクションゲームは1面があって、2面があって、3面があって……というステージのバリエーションで楽しむものだったのですが、下手な人だと1面で終わってしまって「俺には楽しめないゲームだ」と思われてしまったんです(だからロックマンのようなゲームが生まれる)。
でも、『ストII』は最初から8人全員誰でも使えたし、誰とでも対戦が出来た(四天王は初代だと隠しステージ的な認識でしたし)。
だから『ストII』が出始めたばかりの頃は、みんなが同じスタートラインに立てたんです。もちろんそこからどんどん巧拙に差がついて今や…というカンジなんですが。
そう考えると、PSPの『モンハン』が「下手な人でも上手い人にサポートしてもらえば楽しめる」というヒットをしたのも必然ですし、
『NewマリオWii』ってこれにちゃっかし便乗した形だったのかもと思いました。もちろん結果論だとは思いますが、
「『モンハンP』の究極の後追い作品は『NewマリオWii』だったんだよ!」と叫ぶとゲハ的に盛り上がるんじゃねえのかとか云々かんぬん。
話が行ったり来たりしてしまったので、三行まとめで締めたいと思います。
【今日のの3行まとめ】
・人は「挫折したゲーム」に興味を持たなくなるので、常に「挫折のないゲーム」が売れてきた
・ただ、「挫折のないゲーム」の層もいずれ「熱心な人」と「そうでない人」に分かれてしまう
・その度に新しい「挫折のないゲーム」が生まれ、両方を巻き込んで新たなスタートラインになってきた
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